姉の死、経過
姉の死が、こんなに早く来ようとは、、、、、。
昨年の6月、2階の寝室から1階に降りる時に階段で転倒した。
1階の応接間を片づけて、介護ベッドを置き、手すり等も取り付けて、1階のみで生活が出来るように、、、、。
しばらくは、キッチンで食事も作っていたが、キッチンで転倒して以来、ベッド生活
要介護2から4に、、秋以来、ヘルパーさん、家政婦さん、訪問看護ステーションの看護師さん、訪問医療専門のドクターと看護師さん、、、、など、朝、昼、夕、、夜間以外は誰かが訪問してケアーする体制に、、、
ケアマネージャーさんとは、幾度も相談して、有料の介護施設への入居も勧めたが、自宅で最後まで過ごしたい、、、と。
早く、亡母や亡妹、亡夫のところに行きたいと、、、。
12月から2月中旬、、、めっきり耳が遠くなったが、夜は自分で手すりを持ちながら、トイレにも行き、昼間は窓際に座って、庭の景色を見て過ごし、、家政婦さんが作ってくれる美味しい食事も、ほんの少しずつだが食べることも出来た。
2月15日(金)に行った時は、耳は遠いが、話も出来た。
しかし、その真夜中の16日(土)2時に電話をかけてきて、今どこに、、無事に藤枝に帰れたか、、と。
16日の朝、、導尿の管や守るっくをベッドに置いて床に転倒してるのを看護師とヘルパーさんが発見
すぐに町田にへ、、午後3時頃到着、
間もなく、ドクターも来られてて、診察、、、
血圧も200以上と高く、熱もあり、呼吸も荒く、、、点滴による水分補給も不可、持病だった難病の膠原病の薬などの錠剤を飲むのも不可、、
ドクターとケアマネージャーさん、弟の僕とで、本人の意志に従って延命治療はせず、、
全ての錠剤の投薬と始めたばかりの点滴を中止した。
(もし、家族の意見が異なって、あくまで延命治療を、、という人が一人でもいたら、、、
胃ろうや鼻からの経管栄養、血管からの点滴が出来ない場合は静脈を切開して点滴液を、、、
こうやって、半年、1年、2年、数年、、、と生かし続けることになる。
本人はほとんど植物状態で、、、)
鎮痛剤のテープを胸に貼り、、、夕には睡眠の座薬を、、、
ドクターからは、長くて余命1週間、、、本人の生命力にもよるが、、、と。
水分補給にゲル状の水を口から吸わせて、、、本人が欲すれば、、
アイスの実という冷たいシャーベットを好んで口にした。
家政婦さんが、桃の缶詰のシロップなどを口に含ませてくれた。
17日の午後には妻と長男が来てくれた。
まだ早いかなと思ったが、遠い旅路へ着ていく姉のスーツを用意して、、、
17日の夜、穏やかで安定してたので、、18日の朝、いったん静岡に帰宅して、午後に、いろんな予定をキャンセルしたり、自身の血圧の薬をもらうために医院へ行ったり、、、
その夜に、看護師さんから呼吸停止を伝える電話、、、
19日の朝、町田へ、、、穏やかな表情で眠る姉
姉の介護ために関わってくださった多くの方々が来られた。
僕は、葬儀社への連絡、打ち合わせ、金融機関への連絡、諸々の手続き、通知、、、
そして、20日には、ご近所の方々にお別れして遺体を葬儀社へ移送、、、
21日に葬儀社で家族葬、、、
長い、一週間でした。
姉の介護にかかわってくださった多くの方々、、、ブログを通して、見守ってくださった多くの読者の方々、、ありがとうございました。
明日から、数日間、再び町田に滞在します。
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寂しくなられましたねえ。
でも、離れて暮らすお姉さまの面倒を、よく看てあげられて、ほんとうに、お疲れ様でした。
投稿: nonohana626 | 2019年2月25日 (月) 17時08分
穏やかに、、ご本人の意思を守ってお見送りされた事、御立派です。
私の娘は病院からの(訪問看護)を仕事としていますので、ナベショーさんのおっしゃることが良く解ります。
先日も、テレビ・ラジオで放送していましたが、
救急車を呼んでから(病人さんが日ごろ言っていた、加療して欲しくない)と言う言葉を思い出して、病院へ運ぶのを断ったという事を放映していました。
(自宅で最期を迎えたい)という意志を尊重したいものです。
後始末は、まだまだ続きそうですが、どうぞご自愛くださいませ。
投稿: アイハート | 2019年2月25日 (月) 21時37分
nonohana 626さま、アイハートさま
そんなに長くない将来、自分自身と身近な家族にとって、訪れる事、、、、
どのような選択と準備を為さねばならないか、、、、切実な事として実感しました。
もっと、頻繁に姉のところに行っておけばと、悔やんでおります。
まだ、数年は大丈夫と思ってたのに、、、
投稿: ナベショー | 2019年2月28日 (木) 15時36分